ベラミさんが辛い時に、僕が支えてあげるのが僕の理想とする夫婦の形だと思ってるし、ベラミさんが悲しい時は、一緒に悲しんだり寄り添ったりしてあげたい
ベラミさんが何か困ってる時は、一緒に解決策を考えたり、いい方向に行くように最善を尽くしてサポートしてあげたいって思ってる。
でもね、これらは全て「自分が健全なら」って前置きがあっての事。
支える側もいつしか、追い込まれて正常な判断や考え方ができなくなってくる。
いつしか、ベラミさんが辛い時には、こっちも辛いって言っちゃいけないって思ってたし、ベラミさんが怒ってる時や落ち込んでる時には、「普通に過ごすのは悪」だと思い込んで、関係ないのに子供にまで楽しく過ごす事や何事もなく普通に過ごす事を「今はやめて」って強いていた。
ベラミさんの感情に先回りして、「怒らせないように」「落ち込ませないように」「悲しませないように」僕は行動していたんだと思う。それに、彼女を怒らせない事、落ち込ませない事、悲しませない事が、自分に被害が来ないようにするための防御策だったんだと思う。人間だから、そんな事できるはずもないのに。
いつしか、「ベラミさんより楽しんじゃいけない」「自分だけが報われてはいけない」「相手より前に出てはいけない」って思うのが当たり前になっていた気がする。彼女を追い越しもせず、彼女よりも遅れず、ただ同じ感情でずっとすぐ隣で「並走」する事が、彼女に寄り添ってる事だと勘違いしていた。
でも、僕自身もマチ先生とのカウンセリング中で、少しずつ共依存から抜け出した事により、これが寄り添いじゃないことに気付いてきた。そして、寄り添いだと思っていた「並走」は、自分のためにも、ベラミさんのためにも、家族のためにもなっていない事に気が付いてくる。
僕が愛情だと思っていた形は、愛じゃなかった。長い夫婦生活の中、そのことに気付くのには時間がかかってしまったけど、それが愛ではないことに今はやっと気付けたと思う。
